柳久保小麦とは?

 江戸時代の嘉永4年(1851)、現在の東久留米市柳窪の奥住又右衛門が、旅先から一本の穂を持ち帰って育て、その中から優良な小麦を見つけ出した。良質の小麦粉がとれ、うどんにするとひじょうにおいしく香りがよくて人気があり、第二次大戦前まで東京各地や神奈川県など近隣県でも栽培された。また、麦の草丈が長いので、麦藁は農家の「わら屋根」にも利用された重要な品種だった。

 しかし、戦時中の食糧増産のなかで、収量が少ないこと、倒れやすいことなどから、姿が消えて「幻の小麦」となった。昭和の終わりに、四代目にあたる奥住和夫氏が熱意をもって、農水省生物資源研究所に保存されていたタネを300粒譲り受けて、栽培を復活した。

 東久留米市では地域シンボルとして特産化を目ざし、行政、JA、生産者、手打ちうどんの会、食改善リーダー、加工業者などが協力して、うどん・まんじゅう・かりんとう・おやき・パンなどをつくって普及する運動を展開。首都圏での地元小麦利用の広がりは、明るい食の将来、都市での農的景観の再生、風食防止など土壌保全効果も期待される。

 

引用:『故郷に残したい食材』より

http://nipponsyokuiku.net/syokuzai/data/041.html